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第5回 −「古い家、新しい家」−
文/坂 美幸

『古い家、新しい家』

盆と正月、母の実家へ行くことは、私にとって長らく苦痛でしかなかった。
なにしろ、鈴鹿市西冨田で代々続く農家である。周りには田んぼと畑、墓と寺しかなく、近所には菓子も扱う万屋が一軒きり。伊勢の駅前で育った私にとっては、どこを向いても田舎くさく、いとこが気分転換
にハンターへ連れていってくれても、見知った商店街や公園がそばにある我が家へ早く帰りたくて仕方がなかった。
 そんな私に異変が訪れたのは、結婚して子どもが生まれてから。母の姉が亡くなり、両親と私たち一家で鈴鹿の寺へ行った際、蝉の声とおっさんの読経が延々つづく長い長い時間が、なぜか好ましく思えた。
真宗高田派のお経はもちろんチンプンカンプンだったが、膝の上に我が子が頭を寄せている、その重みがただただ愛おしかった。と同時に気付いたのだ、今この瞬間、自分がここに在るのは母と父がいてくれたからで、それは連綿と血が繋がってきたからこそなのだと。
 そう感じてから、母の実家はとりわけ忌み嫌う場所ではなくなった。なのに、近頃は母さえも滅多に寄りつこうとしない。両親や親しかった姉が亡くなり、百姓の長男が守る家は実質、長男のヨメが取り仕切る家に変わってしまったからなのかもしれな
い。もう一つ。あるとき古い家を壊し、新しい家に建て替えたのも、私たちの足が遠の
いた原因じゃないかと、ひそかに思っている。
 私が幼かった頃の「鈴鹿の家」は、牛小屋をつくり替えた厠が、母屋の離れにあり、
夜ひとりでトイレに行くのがとても恐かった。正月に泊まると、台所の三和土からしんしんと冷えてくる床冷えがすさまじく、銅製の湯たんぽを布団の足元あたりに置いてくれるのだが、朝目覚めると、吐く息が白くてびっくりした。
 扇風機しかない畳の部屋で過ごす盆は、高体温の子どもにとって暑苦しいことこの上なく、ここに居るくらいなら、家の前の水路でザリガニを探したほうがましと、外へ出てばかりだった。
 思い返してみると、極寒、極暑、楽しい記憶なんてほとんど浮かばないのに、新しい「和風の家」には一向に親しみがわいてこない。テレビのそばに、いつも「家の光」が置かれていた居間。搗きたての餅を、プラスチックのバットに流し込んで、平たくのした暗がりの土間。藁がたくさん積んであっ
た納屋。田舎くさいと感じていたそれらが、今となっては懐かしい。
 数年前、伊勢から度会町の山奥へ移り住んだ。家のすぐ前に田んぼが広がり、せせらぎが流れ、初夏にはホタルが飛び交うそこは、まさに時代の波から取り残された「村」そのものだ。我が家の子どもたちは毎日犬の散歩にいくと、近所の人にジュースやみかんをお裾分けされ、うれしそうに戻ってくる。冬になると、おとなりさんから猪肉や鹿肉をもらうので、我が家はお返しにピザやパンを焼く。根っからの土地人でないのに、共同体の末端に入れていただいているのを光栄に思う。
 私にとって「村」は現在進行形。懐かしくもあたたかいふるさとである。

ライターノーツ/三重県のローカル誌『NAGI』編集長 坂 美幸
坂さんは三重県伊勢市で発行されるローカル誌NAGI(月兎舎>ゲットシャと呼びます)の編集長。愛する旦那と子供2人の家族に囲まれたお母さんでもあります。
月兎舎さんには私も三重県美里町に引っ越してからお世話になっています。坂さんと出会うことが無かったら月兎舎との出会いも無かったかもしれないし写真集「村の記憶」も発行していなかったかもしれません。(村の記憶は月兎舎から発刊です)坂さん、ありがとうございました。大変遅くなりましたがUPさせていただきました。うさぎ小屋だよりにもお知らせして下さいね!

NAGI


撮影:松原 豊

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おかげさまで完売となりました。
ありがとうございました!

Web連載 「私のむらきお」

 「私のむらきお」 とは 「むらきお」 という言葉から思い起こす記憶の断片ををいろいろな方々に文章にしていただいたものに松原が撮影した 「村の記憶」 の写真を添えてお届けする連載ページ。文章と写真がコラボレートして様々な 「むらきお」 が生まれて欲しい、という思いからはじめています。(「むらきお」とは「村の記憶」を略した言葉です。ひらがなで書くと柔らかい感じになるので事務所で名付けました)

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